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岐阜 -私の記憶PARTⅡ岐阜公園-

 

今回も私の幼少のころ遊んだ場所をご紹介しながら、岐阜の街を見てみたいと思います。


■私の生家から北へ100Mほどいくと岐阜公園の入り口があります。
この公園は子供たちの遊び場で遊具も豊富にあり、ガチャガチャした雰囲気でしたが、今は美しく整備され、当時の面影がありません。

 

 

■その左側には万松館という由緒ある旅館があります。
昭和天皇や当時の皇室は来岐すると必ずここに泊まりました。
私たち子供は、そのたびに日の丸の旗をふるのが仕事でした。

 

 

■公園に入ると右側に名和昆虫博物館に隣接する、資料館が見えます。
この公園がいかに私の生家に近いか分かります。

 

 

■この女神の像は昔からありましたが、こんなきれいな噴水になったなんて。
当時の公園は動物公園で、ライオンやペンギン、世界中のめずらしい鳥がいました。

 

 

■右の像、板垣退助の像です。この地で演説中、刺されて死にました。
明治15年 自由党総理の時 ,
「板垣死すとも自由は死せず」という有名な言葉を残して散りました。
後の100円札になりました。

 

■この公園の敷地の一部に織田信長の居館があったことが判明し、動物公園がいつやら歴史公園になってしまいました。

 

 

 

■発掘が進むと巨石の石積みや、後の高度な築城技術につながる発見があるようです。

 

 

 

■このように、そこらじゅう掘り起こして調査しています。どうやら単体の館ではなく、館群のようです。

 

 

 

■この水門のデザインはユニークで子供たちはロボット水門と呼んでいました。
この水路で魚を採ったり、泳いだりして遊んでいました。
とても懐かしいです。

 

 

■ロボット水門につながる水路です。このあたりはホタルがたくさん出て、シーズンには毎晩のように父といっしょにホタルを見に来ました。
父がいつもアイスクリームを買ってくれるんです。


■その水路の脇に御手洗池(みたらしいけ)という池があります。
やや暗いこの池を子供たちは底なし沼といって恐れていました。
採れるのは、雷魚となまずだけです。栄養不足の子供たちでも、ここの魚だけは口にしませんでした。
関が原合戦で岐阜城が落城して奥女中の多くが投身自殺をしたと聞いていたからです。